大河ドラマ「べらぼう」~特別解説編‐11


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~「蔦重の誕生を考える」~「蔦重の誕生を考える」親なし、金なし、画才なしての、無いないないづくしの生まれから。“江戸のメディア王”として時代の寵児になった快男児・蔦屋重三郎の誕生を「NHK大河ドラマ歴史ハンドブック」より解説します。喜多川歌麿は浮世絵美人絵師として名を馳せていたのではありませんでした。下積み時代を経て、版元の蔦屋重三郎も画才を見出され、才能を開花させて行きました。
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蔦重重三郎のプロデューサーにより戯作者としてデビューします。以後、黄表紙、洒落本を手掛けるが、寛政改革による出版統制に遭い。読本作家に転身し、大成功を収めました。

<喜多川歌麿と狂歌との関わり>
蔦重は蔦唐丸の名で、喜多川歌麿は筆綾丸の名で狂歌を読んだ。天明二年秋に忍岡で戯作者・狂歌師の会が催され、歌麿がその縁を結ぶのに一役買ったと記録する資料がある。
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しかし、喜多川歌麿はまだ浮世絵師として実績に乏しく、蔦重が歌麿を売り出すために会の開催に関与したのではないかと指摘されている。江戸ではこの頃から狂歌熱が高まる。蔦重のもとで歌麿は狂歌に関わる画事に従事した。例えば天明四年に黄表紙仕立の歳旦狂歌集「太い根」に挿絵を描き、天明六年には江戸名所歌本「江戸すずめ」絵を描いた。狂歌を画中に備えた錦絵もう制作された。讃を寄せた狂歌本から資金を得て版本を制作する、蔦重の経営的な思惑もあったようである。蔦重と歌麿は天明八年から寛政二年(1790)にかけて七種の美しい彩色刷りの絵入り狂歌本を版行した。
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天明八年刊の「画本虫選」はその代表作である。美人画で売り出した歌麿が狂歌に詠まれた虫を草花と共に精緻に描写していて、画域の広さを示す。蔦重の卓越した企画力と、歌麿の画力とが合わさり深い芸術性を宿す作品が生み出された。同年に春画「歌満くら」が描かれ、天明期の蔦重と歌麿の共同制作が一つのピークを迎えた。

<美人大首絵の版行>
天明末から寛政はじめの頃より、歌麿は蔦重以外の版元の仕事を行うようになった。一方で蔦重との密接な関係も継続した。完成二年5月に出版を取り締まる町触れが出され、寛政の改革の波が蔦重に押し寄せた。「花美を尽し、潤色を加へ」。贅沢な本が禁止され、華やかな色摺りの絵本狂歌本は作れなくなった。さらに寛政三年三月に出版の禁制を冒した罪により、蔦重は処罰を受ける。そんな風潮に関連してか、寛政二年後半から同四年にかけて、歌麿の確実な制作が確認できない時期が訪れる。再び歌麿の作品が確認できるのは寛政五年春後になったなってからである。
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約二年間の空白の後、歌麿は美人大首絵を発表して、その名を美人画の第一人者まで高めた。上半身や顔アップで捉える大首絵を錦絵の美人画に取り入れたのは、歌麿が最も早い。寛政明日四、五年頃に蔦重から売りに出された「婦人相学十躰」をはじめとする美人大首絵は、女の心情を微細に映し出して美人画の新機軸となった。
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さらに高嶋ひさ、難波屋店きた、富本豊雛など、江戸で評判の実在する美人を描いて人気を不動のものとした。歌麿のスタイルの優美な美人画が流行し、完成機の歌浮世絵会を席巻した。

記・山本ゆかり(多摩美術大学講師)
江戸探偵人

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